江戸時代の250年間、鎖国であった日本は、独自の芸術や職人文化を育みました。当時の産業の中心は手工業でした。アメリカ合衆国海軍代将マシュー・ペリーの来航をきっかけに、江戸幕府は嘉永7(1854)年に日米和親条約を締結し、2つの港を開港します。それを機に、西欧の産業革命によって産み出されたさまざまな技術や製品が入るようになり、日本の産業は大きく変わり始めます。
明治元(1868)年の明治維新以降、日本は国際社会に対等な国として認められることを目指し、「文明開化」のスローガンのもと、積極的に西洋化政策を推し進めました。東京をはじめとする主要都市は、都市基盤を整備し、外国人建築家の設計による石や煉瓦造りの西洋式の建物をつくるなど、西洋文化を採り入れて急速に様変わりしていきます。そしてそのような近代化を支えたのが、煉瓦、タイル、テラコッタおよび土管といった、土でつくられたやきものでした。
日本の近代化の過渡期において、LIXIL創業の父の一人である伊奈初之烝(はつのじょう)は、日本の職人技と大量生産のための機械を組み合わせ、新しい日本の暮らしを支える製品をつくり、日本のやきもの産業発展の立役者として重要な役割を果たしました。
江戸時代の250年間、鎖国であった日本は、独自の芸術や職人文化を育みました。当時の産業の中心は手工業でした。アメリカ合衆国海軍代将マシュー・ペリーの来航をきっかけに、江戸幕府は嘉永7(1854)年に日米和親条約を締結し、2つの港を開港します。それを機に、西欧の産業革命によって産み出されたさまざまな技術や製品が入るようになり、日本の産業は大きく変わり始めます。
明治元(1868)年の明治維新以降、日本は国際社会に対等な国として認められることを目指し、「文明開化」のスローガンのもと、積極的に西洋化政策を推し進めました。東京をはじめとする主要都市は、都市基盤を整備し、外国人建築家の設計による石や煉瓦造りの西洋式の建物をつくるなど、西洋文化を採り入れて急速に様変わりしていきます。そしてそのような近代化を支えたのが、煉瓦、タイル、テラコッタおよび土管といった、土でつくられたやきものでした。
日本の近代化の過渡期において、LIXIL創業の父の一人である伊奈初之烝(はつのじょう)は、日本の職人技と大量生産のための機械を組み合わせ、新しい日本の暮らしを支える製品をつくり、日本のやきもの産業発展の立役者として重要な役割を果たしました。
明治の開国とともに、徐々に海外からの来訪者が増えていくなか、帝国ホテルは明治23(1890)年、外国人客が快適に過ごせる宿泊施設として設立されました。その後日本の近代化が進み、1900年代初頭にかけて外国人訪日客がますます増えると、より多くの客を受け入れるため、帝国ホテルは大正5(1916)年にアメリカ人建築家フランク・ロイド・ライトに、帝国ホテル2代目の本館(後の「帝国ホテル旧本館(ライト館)」)の設計を依頼しました。
帝国ホテルの設計にあたり、ライトは日本の近代化と、西洋と東洋の異文化の交流を象徴する斬新なデザインを用いました。また、当時典型的な西洋建築に用いられていた赤煉瓦を使わず、表面にスクラッチ加工を施した黄色い煉瓦(スダレ煉瓦)や装飾テラコッタ、大谷石を用いることにより、日本人の感覚に合う温かみのある自然な色調に仕上げました。
ライトの帝国ホテル旧本館は、近代日本を象徴する建築物となりました。そのスタイルを真似て、スダレ煉瓦(スクラッチタイル)は人気を博し、日本の風土に合った外装建材の工業化の発端となりました。
帝国ホテル旧本館の壁に用いた、当時としては珍しい黄色いスダレ煉瓦が(スクラッチタイル)は、やきものの街として知られる愛知県常滑市に設立された専用工場「帝国ホテル煉瓦製作所」でつくられました。当時はまだ手工業から機械化による大量生産への過渡期でしたが、技術指導として迎えられた伊奈初之烝と長三郎親子の尽力と、職人たちの試行錯誤により、ライトの要望に応えた煉瓦400万個と、何万個もの繊細な形をしたテラコッタが完成しました。そして伊奈親子は、帝国ホテル旧本館の竣工とともに、役割を終えた「帝国ホテル煉瓦製作所」の設備と従業員を、伊奈製陶(INAX)に引き継ぎました。
帝国ホテル旧本館の館内は、ライトがデザインした採光により高窓から陽が降り注ぐなか、光を通す孔のある透かし彫りの煉瓦や、彫刻を施した大谷石、繊細なテラコッタが陰影をつくり出し、独特の神秘的な空間を演出しました。
明治の開国とともに、徐々に海外からの来訪者が増えていくなか、帝国ホテルは明治23(1890)年、外国人客が快適に過ごせる宿泊施設として設立されました。その後日本の近代化が進み、1900年代初頭にかけて外国人訪日客がますます増えると、より多くの客を受け入れるため、帝国ホテルは大正5(1916)年にアメリカ人建築家フランク・ロイド・ライトに、帝国ホテル2代目の本館(後の「帝国ホテル旧本館(ライト館)」)の設計を依頼しました。
帝国ホテルの設計にあたり、ライトは日本の近代化と、西洋と東洋の異文化の交流を象徴する斬新なデザインを用いました。また、当時典型的な西洋建築に用いられていた赤煉瓦を使わず、表面にスクラッチ加工を施した黄色い煉瓦(スダレ煉瓦)や装飾テラコッタ、大谷石を用いることにより、日本人の感覚に合う温かみのある自然な色調に仕上げました。
ライトの帝国ホテル旧本館は、近代日本を象徴する建築物となりました。そのスタイルを真似て、スダレ煉瓦(スクラッチタイル)は人気を博し、日本の風土に合った外装建材の工業化の発端となりました。
帝国ホテル旧本館の壁に用いた、当時としては珍しい黄色いスダレ煉瓦が(スクラッチタイル)は、やきものの街として知られる愛知県常滑市に設立された専用工場「帝国ホテル煉瓦製作所」でつくられました。当時はまだ手工業から機械化による大量生産への過渡期でしたが、技術指導として迎えられた伊奈初之烝と長三郎親子の尽力と、職人たちの試行錯誤により、ライトの要望に応えた煉瓦400万個と、何万個もの繊細な形をしたテラコッタが完成しました。そして伊奈親子は、帝国ホテル旧本館の竣工とともに、役割を終えた「帝国ホテル煉瓦製作所」の設備と従業員を、伊奈製陶(INAX)に引き継ぎました。
帝国ホテル旧本館の館内は、ライトがデザインした採光により高窓から陽が降り注ぐなか、光を通す孔のある透かし彫りの煉瓦や、彫刻を施した大谷石、繊細なテラコッタが陰影をつくり出し、独特の神秘的な空間を演出しました。
東京は大正12(1923)年の関東大震災によって壊滅的な被害を受けましたが、その後は百貨店、銀行、官庁などの建築物が「鉄筋コンクリート」で建ち、外壁にはタイルやテラコッタが施されました。
テラコッタの華やかな装飾は、震災復興期のシンボルとなりました。それは大阪、京都、横浜などほかの都市にも広がっていき、街を飾り日本の近代における「装飾の時代」を形づくっていきます。テラコッタのデザインには、世界のさまざまな装飾様式やモチーフのほかに、施主の家紋など日本の意匠も採用されました。
この頃、伊奈製陶(INAX)は、帝国ホテル旧本館のテラコッタ製作で得た知識や経験を活かし、日本のテラコッタ装飾の製造を牽引していました。
明治時代の外国人居留地の写真(Courtesy of Yokohama Archives of History)
ペリー来航のあと、江戸幕府は安政5(1858)年に5カ国と修好通商条約を締結しました。それを機に、条約国の人びとは、港近くの外国人居留地に居住し貿易することが認められました。治外法権と同等に取り扱われ西洋文化の入口として栄えた外国人居留地は、明治32(1899)年の条約改正にともない日本に返還されるまで続きました。返還後、外国人は日本国内のどこでも自由に行き来し、居住できるようになりました。
東京は大正12(1923)年の関東大震災によって壊滅的な被害を受けましたが、その後は百貨店、銀行、官庁などの建築物が「鉄筋コンクリート」で建ち、外壁にはタイルやテラコッタが施されました。
テラコッタの華やかな装飾は、震災復興期のシンボルとなりました。それは大阪、京都、横浜などほかの都市にも広がっていき、街を飾り日本の近代における「装飾の時代」を形づくっていきます。テラコッタのデザインには、世界のさまざまな装飾様式やモチーフのほかに、施主の家紋など日本の意匠も採用されました。
この頃、伊奈製陶(INAX)は、帝国ホテル旧本館のテラコッタ製作で得た知識や経験を活かし、日本のテラコッタ装飾の製造を牽引していました。
ペリー来航のあと、江戸幕府は安政5(1858)年に5カ国と修好通商条約を締結しました。それを機に、条約国の人びとは、港近くの外国人居留地に居住し貿易することが認められました。治外法権と同等に取り扱われ西洋文化の入口として栄えた外国人居留地は、明治32(1899)年の条約改正にともない日本に返還されるまで続きました。返還後、外国人は日本国内のどこでも自由に行き来し、居住できるようになりました。
明治時代、当初は横浜や神戸の外国人居留地の雨水などの排水に用いられた土管は、やがて日本の近代化を支える重要な役割を果たすようになりました。人口が増え都市化が進むにつれ、快適な都市生活に欠かせない上下水道などのインフラづくりに役立つ土管の需要はますます高まっていきました。いっぽう農村でも、土地の水捌(みずは)けを調整するための設備「暗渠(あんきょ)」に土管が使われ、日本の稲作は飛躍的に発展しました。
帝国ホテル旧本館のスダレ煉瓦やテラコッタ製造に携わる以前に、伊奈初之烝は明治35(1902)年に常滑で土管製造業を開業し、土管を大量に生産する工場を営んでいました。土管は日本各地で生産されていたものの、常滑産のものは耐久性と精度に優れ、東京、横浜をはじめとする日本の主要な近代都市で多く用いられるようになりました。
常滑のINAXライブミュージアムは、大正10(1921)年につくられた大きな窯と高さ21メートルの煙突を、当時の様子を伝える貴重な産業遺産として保存公開しています。この大きな窯は、片面7カ所、両面合計14カ所の焚口から石炭を投入するものです。容量が大きいため、焼成に3~4日、冷却に10日間ほどかかりました。50年間使われ、クリンカータイルなどの製品とともに、最大級の3尺土管(内径が約90センチ)も生産していました。窯本体と煙突、建物は国の登録有形文化財に指定されています。
Story1 Herovisual: © Toshihide Kajihara
明治時代、当初は横浜や神戸の外国人居留地の雨水などの排水に用いられた土管は、やがて日本の近代化を支える重要な役割を果たすようになりました。人口が増え都市化が進むにつれ、快適な都市生活に欠かせない上下水道などのインフラづくりに役立つ土管の需要はますます高まっていきました。いっぽう農村でも、土地の水捌(みずは)けを調整するための設備「暗渠(あんきょ)」に土管が使われ、日本の稲作は飛躍的に発展しました。
帝国ホテル旧本館のスダレ煉瓦やテラコッタ製造に携わる以前に、伊奈初之烝は明治35(1902)年に常滑で土管製造業を開業し、土管を大量に生産する工場を営んでいました。土管は日本各地で生産されていたものの、常滑産のものは耐久性と精度に優れ、東京、横浜をはじめとする日本の主要な近代都市で多く用いられるようになりました。
常滑のINAXライブミュージアムは、大正10(1921)年につくられた大きな窯と高さ21メートルの煙突を、当時の様子を伝える貴重な産業遺産として保存公開しています。この大きな窯は、片面7カ所、両面合計14カ所の焚口から石炭を投入するものです。容量が大きいため、焼成に3~4日、冷却に10日間ほどかかりました。50年間使われ、クリンカータイルなどの製品とともに、最大級の3尺土管(内径が約90センチ)も生産していました。窯本体と煙突、建物は国の登録有形文化財に指定されています。
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